2012年6月15日金曜日

ゲシュテルとの四つの道

私がゲシュテルといっているのは、ハイデガーが「技術論」の中で言っている、現代の技術文明全体のことです。

それは、何かのために役立つこと、を推進力として進んでいる生き物のようなものです。たどり着くところは、お金のためということになるのですが、それだけでは何ももたらさない、ニヒリズムを生産するような装置です。

何かの役に立つということは「用象(ようしょう)」ともいいますが、ゲシュテルは「用象の体系」ともいうことができるでしょう。

私たちは、このゲシュテルに取り囲まれて生活しています。それどころか、心の底までゲシュテルに浸っているといっても良いでしょう。

さて、ゲシュテルには良い面と悪い面があります。
良い面は、医学の発達によって病気を克服したり、生活を便利にしたり、産業を振興したりすることです。また不合理な迷信から人間を解放し、明快な近代性をもたらすということです。
悪い面は、自然界から人間を分離し、精神のよりどころを不安定にさせ、人間を心底から管理することです。また、破壊的なリスクを伴います。核戦争の脅威、環境破壊、原発事故を引き起こすリスクがあります。

このゲシュテルに対峙するには、4つのやり方があります。


1、不穏な道 
不穏な道は、はっきりとゲシュテルを否定する道です。原始的ともいえる死に物狂いの反撃で、ゲシュテルの破壊を試みます。さまざまな人がいますが、主な破壊者は岡本太郎、バタイユ、クロソウスキー、埴谷雄高などです。
生身の人間の感覚でぶつかり、自分が死ぬか、相手が壊れるかというところで勝負します。



2、死の道
これは絶望的なあり方ではありません。
死後の世界について語るということです。ゲシュテルは死には付いていけないので、死をもってゲシュテルから離れることができます。死後の世界が存在して、この世は死後の世界のほうが本質的であって、この世はその本来的世界の反映にすぎないのであれば、ゲシュテルもなんら本質的でないことになります。


3、無の道
無の道は、毛利衛さんが宇宙から地球を見たときの達観にも似ています。すなわち「地球も人類も、あってもなくても同じこと」「なのにある。あるようにしてある。」
この人間としての視点を離れたところから出発しているところにこの道の特徴があります。
「すべては同じもの、隔てるものは何もない」という荘子や老子の思想にも通じるものです。
つまり、ゲシュテルもあるようにしてあるもののひとつであり、なんら特別なものではないのです。



4、知恵の道
知恵の道は、ゲシュテルが活動している現場に足を運び、ゲシュテルの作用を良く見て、知ることです。工場や農作業の現場、清掃センターや埋め立て処分場などを見て、ゲシュテルの活動の様子を五感に叩き込むことです。ゲシュテルの働きを知ることによってゲシュテルが対峙している相手(自然)を、人間対自然ではなくゲシュテル対自然として認識できるようになります。


・・・・・・・これらのことを公園の池の近くで考えていると、ウシガエルが「ぐううぅぅ」と鳴きました。
私はハッとしました。

しかし、何にハッとしたのか、わかりませんでした。




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