2012年5月31日木曜日
私は何を目指しているのか
誰でもそうだろうが、私も10代の時期は世の中になじめなくて困ったものでした。
そういう時期は普通は10代で収まるのだが、私の場合は、
20代、30代、そして40代はじめになってもそうでした。
うまく説明できないけれど
世の中が、金融や株式や軍事的なバランスや世論やらなにやらのわけの分からないものによって動かされていて
一体自分がどのようにそこに関わったらよいのか、分かりませんでした。今までもどこまで分かっているのか怪しいものですが。
芥川龍之介の小説で「歯車」という話があります。
主人公は頭痛とともに半透明の歯車がぐるぐる回る幻視に悩まされるという話です。
この歯車のように、現代社会は、得たいのしれないわけのわからない理由で動いていて
私の意志とは関係なく私を巻き込んでいく。
それどころか、この歯車は私の心の内部にもあって、こころの中から支配を作り出しています。
長い間かけて私は、この「歯車」の正体を明らかにしようと勤めました。
20代を過ごした時期は、おりしも、バブルの時代でした。
今でも語り草の狂騒の時代。しかし、空虚で何か物足りない、いや決定的に何かが足りないと思っていました。
光明を与えてくれたのはミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」でした。
フーコーの精緻な権力分析は、「歯車」が作られていく過程、そして「歯車」が内面化していく過程を
つぶさに説明していました。
僕は、この現代社会で生きているうえでの「うそ臭さ」を感じていました。
フーコーのおかげで、今ではその「うそ臭さ」が生じるメカニズムを知ることができました。
またアメリカインディアンやアボリジニらの自然との関わり方を知りました。
「歯車」が存在しない社会がかつてはあって
それは、神話や、儀式、瞑想などの方法で、社会的機能と人間の精神が一体となって営まれていたのです。
そのようないくつかの示唆的な方法論をへて、私はひとつの命題を立てました。
「自然-身体-精神-社会」をつなぐということです。
私たちは、自然や自分の身体から、決定的に離れているということが、問題なのだと悟りました。
そのことの統一性を現代社会において取り戻したいと考えたのです。
そんなことは可能でしょうか?
やりはじめたとき(つまりこのメッセージサイトを始めたころ)は、手がかりが少なすぎて、どうなるのかわかりませんでした。
しかし、ここ数年の探求を経て、できるんじゃないか、できそうだ、という感触を得ています。
部分的にはつながってきていますが、全体的なつながりがまだまだです。
思想的に完成するということは、断片的に説明できることではなく
全てを一貫して示すことができなければなりません。
目下の課題は、それらを感覚的に統合するということです。
身体-自然-社会を、一貫した感覚で表現すること、ということが
まだできていません。
安易に完成するとも思えませんが、あと数年のうちに、全体像を示すことができると思います。
芸術としていうならば、そういうことが作品で表現できているということになります。
たぶんそれは可能だろうと思っています。
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