死は基本的には物理的な現象であって、私の心がいくら死を嫌がっていようとも、私の肉体は絶えず崩壊に向かっているので、それは避けようもない。じたばたしても仕方がない。受け入れるしかない。
しかし私は実際に不治の病を宣告され、余命数ヶ月と言われたら、たぶん私は驚愕し、自分の不遇に怒り、嘆き、悲しみにくれて号泣するだろう。動揺は数日間は収まらないだろう。そうしてやがてそれを受け入れ、人生を終わらせる準備を始めるだろう。そういう精神状態にたどり着くまでに2週間くらいかかると思う。しかし時間はないのだ。やり残したことを整理し、お世話になった人に感謝してお礼を言う。たぶん、いままでの人生で一番忙しい時間だろう。やがて病状は悪化し、苦しんで、死ぬだろう。
希望があるとすれば、以下の2点である。
一つは、後世に残る仕事をしてから死にたいということである。私には自然-身体-精神-社会をつなぐというテーマがあるが、それを達成しえないまま、人生を閉じなけばならないとすれば誠に残念だ。残りが数ヶ月しかないとすれば、大幅に計画を変更し大急ぎで成果をまとめなければならない。
もう一つはやはり愛するものに看取られたいということである。そして私という人間が、人々の記憶として生き続けてくれればと思う。
それらの一連の過程のなかで、私は「あの世」について口にするかもしれない。
病床で、家族や見舞いに来てくれた人に「先に行って待ってるよ」とか、言うかもしれない。
もう2度と会えなくなるのではなく、一時的に会えなくなるに過ぎないというフィクションを口にする可能性はある。そうすることによって私は、その人との絆を確認するだろう。ただそれは、慣習以上の意味は持っていない。
病が内臓、神経、循環系を侵し、耐え難い苦痛に襲われ、身体の機能が衰弱していくのを感じ、やがて意識が朦朧として、そして死ぬだろう。
私の肉体は物質に帰る。
しかし、私の遺伝子はわが子に受け継がれ、また私に関わった人々には私の記憶が生き続け、私のいくばくかの業績は残るかもしれない。私は死ぬが、私が生きていたという事実は決して死ぬことはない。
生きる意味とは、自分の身体で多様な価値を生成できることだ。死んでしまったらそれはできない。願わくば十分納得できる価値を生み出した後、「もう十分に生きた、満足だ。あとは死ぬだけだ」という心境になってから死にたいものだと思う。
私は「たましい」の不死を必要としない。ただ私という人間が生きていたというそのことの価値は、決して死ぬことがない。

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