2010年7月5日月曜日

身体の意味次元

身体にはいくつもの次元が突き刺さっている。

身体をめぐる問題の系列にさまざまな次元がある。
考察を深めるために、すこしそれらの問題を整理してみよう。


自然としての身体
身体はもっとも身近な自然である。何も海や山に出かけなくても自然は自分にぴったりと寄り添っている。体内でおこる様々な現象はまさに自然現象そのもの。身体は地球を作っている物質と全く同じ成分で成り立ち、基本的な物理作用も全く同じだ。

進化の歴史としての身体
僕らの身体は、地球の生命誕生以来、脈々とつながってきた進化の歴史の一断面である。身体の中に地球の歴史が入っているといってよい。 内臓の配置もその複雑な機能も、進化の試行錯誤の驚くべき成果である。


見えない身体
目の裏側には視神経があるのだが、私たちはその存在を意識することはない。頭痛の時以外は、脳の存在を意識することもない。咀嚼、嚥下、胃の満腹感、呼吸などは意識できるが、血液循環、腎臓や肝臓の働きは意識できない。身体は、闇であり、外部であり、謎である。自分の身体よりも、目の前にある物のほうがはるかに良くわかり、確かに認識できる。


感覚の源泉としての身体
私たちは、感覚を外部から、または内部から与えられるものとして
その発生の源泉として、身体を認識する。
皮膚に触るものがあると、接触感覚の源泉として皮膚を発見する。
食事をして胃が膨れると、いっぱいになった感覚の源泉として胃を発見する。
身体は絶えず、感覚の源泉なのである。



医学的身体 分子的身体
近代医学は解剖から始まった。
何と何がつながっているのか、何かの作用の原因は何か、その機械的な理解が近代医学なのである。病気があると、内臓の機能不全とか、菌とかウィルスなどの実体のあるものの作用を発見してきた。その網の目は、着々と整備されここ半世紀は分子のレベルで説明されてきている。まさに身体は分子のレベルに分解しているのである。

健康維持の対象としての身体 または持病を持つ身体
健康維持の努力または病気の話は、どんな場合でも人々の興味の対象である。このことは現代の人々が、どれほどこのことに関心を持っているかを表している。

見られる身体、他者との関係としての身体
幼児が鏡を見ることから、自分を一個のまとまりのある主体として認識するという。
他者として認識され、そして他者との関係によって、我々は一個の主体となる。自分の身体認識も、他者を抜きにして語れない。他人から見られていることについて、私たちは自身の身体について特に気を使うのである。

権力的身体 管理される身体
学校がその好例だが、制服を着用し、出席番号で呼ばれ、気をつけ・礼によって授業をし、服装、態度、絶えざる試験による格付け。こうして生徒として相応しい態度物腰を身に着けた主体ができあがる。また社会人となると、スーツに身をつつみ、就業規定によって時間的・空間的に管理される。近代とは、近代の権力とは、このような身体管理のテクノロジーの発達に他ならない。

記号的意味を持つ身体
身体は記号が書き込まれる格好の場所である。まず名前がある。服装、刺青、化粧、髪型など、さまざまな記号によって人間を区別してきた。江戸時代には服装によって身分・職業が判別できた。
もちろん現代でも人々は好むと好まざるとに関わらず記号を身にまとう。女性または男性であることを強調する身なりの記号、仕事なのか休暇なのかの服装の記号、持ち物、時計、服など、あらゆるものが記号的意味を持つ。

・・・これで全部だろうか。いや、まだ、まだありそうだ。
思った以上の大変な作業だ。身体には非常に多くの意味がある。
後半になればなるほど、悪臭ただよう身体論になっている。社会が身体を生産の道具として利用することを前提とするためである。もちろん、記号化は社会的生物としての人間にとって本質的なことである。しかし、現代の社会は記号化によって身体を取り囲んでしまい、「自然としての身体」「進化の歴史としての身体」「感覚の源泉としての身体」と、あまりにも乖離してしまうのである。

だが、もう一つある。 希望の持てる身体のあり方だ。
文化的身体
これは、瞑想やヨガ、東洋医学の取り組み、呼吸法、アメリカ原住民らの儀式、などに見られる身体の使い方、身体を自然や感覚につなげる働きをする文化である。
様々な意味の絡まる複雑な身体は、よく練られた技を通じてしか本来の姿に戻ることはできないのである。このような身体文化が、記号化と同じくらい重要な意味を持ちうる社会になることが必要である。服装や持ち物と同じくらいに、身体の内面が重視される社会にすることが、私の目的でもある。



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3 件のコメント:

  1. What is Life?(http://sammyclickpresswhatislife.blogspot.com/)は、生き物って何?をわかりやすく説明するブログです。近日中に捕鯨問題に切り込みます。

    大変、よくわかります。ただ、人間を特殊なものと考えることは反対です。あなたがそのような考えの持ち主ではないことはわかりますが、極論を言うと、思考、感情、すべてが電子の動きであり、さらには、ビックバン以降の単なるエントロピーの増大だとも考えられます。でも、それを言ってはちゃぶ台のひっくり返し、すなわち星一徹になるので、さあ、どうするかを科学者は頭をひねっている訳だと考えております。いかがでしょうか。

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  2. 私の小難しいブログに初めてコメントが入りました。貴方が第1号です。ありがとうございます。コメントが入るとは想定していなかったので、7月9日にいただいたのに、もう13日になってしまって大変失礼いたしました。
    さて・・・
    実をいうと私も人間は物質・現象に過ぎないと思っています。物質・現象であることを真に、納得したいと思っています。人間はその辺に転がっている石や、土塊と全く同じものであることを実体験で証明したいと思います。
    しかし何故か人間には感覚があり、主観がある。デビッド・チャーマーズが言う「難しい問題」です。クオリアとも言いますが。
    私は神秘主義は嫌いで、「たましい」の存在を支持する論からは距離を取っています。そういうものを裏付ける論には足を踏み入れたくは無い。
    だから、こころの問題と捉えるのではなく、からだの問題として捉えたいと思う。主観問題・クオリア問題は、身体の問題を追求しぬくことで突破できるかもしれない、と私は考えています。

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  3. なるほど、ほぼ同じような考えをお持ちだということが、わかりました。ただ、そうしたものを生物学的に解説したものが、What is Life?ということになります。そこには、石ころと自分たちの違いということから説明をしています。お時間がございましたら、どうかご覧ください。そして、可能でしたら、お友達にご紹介ください。あなたと同じく、やはり誰かに見てもらわないと、意味ないですから。

    さらに、今は夏期集中講義の期間です。7/19正午がレポート提出期限です。出せば最低でも「C」を出します。お急ぎください。

    それと、集中講義では、すこしだけ宗教観を交えています。どうか今後ともよろしくお願いいたします。

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