2013年10月20日日曜日

ジャガイモのために -沢渡大火-

先日10月14日まで、群馬県中之条町にて中之条ビエンナーレ2013が開かれていた。それに出品していた私の作品を紹介します。会期が終わってから掲載するのも妙な話だが、展示期間中にはこの文章は書けなかっただろう。なぜなら、作品を通して観客(特に地元の方)とのコニュニケーションがこの作品にとって重要な意味を持ち、時間を追うごとに作品の意味が深まっていったからだ。

中之条町に、沢渡温泉という場所がある。草津の上がり湯として栄え、今や秘湯といった方が良いかもしれないような、風情ある温泉街である。

会場は沢渡温泉街から少し離れたところにある古い蔵である。昭和初期に立てられたそうだ。
作品の設置前の蔵
壁の右上に見える黒こげたような跡は、昭和20年4月16日にこの地に発生した「沢渡大火」の跡である。この蔵の手前に大きな母屋があってそれが焼けたときに炎で煽られて出来たものだ。
大規模な山火事だった。近隣の山々とともに、沢渡の温泉街の全てを焼きつくしてしまった。
沢渡温泉は戦国時代から続く古い温泉であり、江戸時代に立てられた木造の大型の旅館などが多数あったのだが、それらが全て焼失してしまった。

実はこの火災は空襲等ではなく、人災である。
昭和20年4月と言えば戦争末期で、沢渡には約200人の児童が東京から疎開に来ていた。子供たちは大きな旅館に分散して滞在していた。人口約150人の沢渡に約200人の子供が来たので、当然食料が不足していた。
当時、非常食としてジャガイモを栽培することが奨励されていた。疎開児童たちが滞在していた或る旅館の主人が、子供たちにジャガイモを食べさせようと山を焼畑にしてジャガイモを栽培しようとした。しかし不幸なことにその焼畑の火が燃え広がり、沢渡全体を焼いてしまったのである。逃げ遅れて5人の方が亡くなった。何よりも、沢渡温泉全体が灰燼と化してしまったのである。
善意で行なったことにも関わらず、壊滅的な結果となった、誠に痛ましく、やりきれない事件である。

この蔵を会場に選んだ私は、郷土史を調べてそのことを知り、この重い事実を無視して作品はできないと考え、むしろ正面から取り組む決意をした。


ナナメ格子状の枠をつくり、ジャガイモを模した石を配置した


ナナメ格子の枠と石で、蔵の四方を囲った。

周囲に配置したジャガイモに見立てた石。作り物の芽を生やしている。

私は、子供たちが食べられなかったはずのジャガイモを、「食べられない石」で表現した。ジャガイモに見立てた石を蔵の周囲に配置した。その石には「出なかった筈のジャガイモの芽」を取り付けた。これらが「達成できなかった虚の事実」である。
蔵の全周囲にわたるナナメ格子状の構造物は、石の台であると同時に、「戦争」「疎開」「食料不足」などの檻のような心理的な圧迫感も表している。

一方、蔵の手前に本物のジャガイモを植えた。これは本当のジャガイモの芽であり、地中では本物のジャガイモが育っている。11月には収穫できると思う。
沢渡大火の復興は長くかかった。昭和30年代に入って温泉に客が戻ってきて温泉病院も出来、かつての賑わいが戻ってきた。その後の沢渡の復興の芽である。


秋植えジャガイモをの種芋を買ってきて植えた。青々と茂っている。
私は、可能な限り会場に立って、来場客一人ひとりにこの事を話して聞かせた。群馬県や中之条の人は「沢渡大火は学校で習って知っていたが、詳しくは知らなかった」「大火のことは親から聞いて知っていたが、ここにその跡があるとは知らなかった」などと様々な感想をいただくことができた。そして誰もが、私の話を聞くと、「そうか・・・・」と感慨深げに5分ほどジーっと作品を見て帰っていく。人々の心に深く響くものであったようだ。
何よりも、大火の当時を知る人々が訪れると、生々しいお話を聞くことができた。「空から火のついた灰が降ってきた」「家畜が逃げ惑い、道のあちこちで死んでいた」「橋が焼け落ちて、自転車を担いで川を渡って帰った」などなど、つい昨日のことのように話してくれた。

沢渡には縁もゆかりも無い私が、この地域の重い歴史を語ることは、正直言って躊躇がなかったわけではない。しかし、この蔵の所有者の方を始め、沢渡の方々は私の行ないの意義を認めてくれたようで、良く語ってくれた。
おそらく作品がそこにあり、その前で語ったので私の態度が明確だったのだろう。私の意図を超えた作品の力である。

火をつけた旅館の主人の行為は決して擁護できることではない。乾燥した気候で斜面に火をつけるというあまりにも軽率な行動であり、被害は甚大なものだった。
しかし私は少年期に神経症になって電車に乗れなくなった自分と重なるものを感じる。戦争という近代性に曝されたこの男と、電車という近代の乗り物になじめなかった自分は、傍から見れば馬鹿馬鹿しいほど切実なもがき苦しみ方をしていたのではないだろうか。

沢渡という片田舎で起こった、近代の苛烈な介入。そしてそれが自身の失火によって生じたという事実。私は、そのことを自分自身の体験であるかのように感じた。そして神経症になって以来感じていた近代文明との抜き差しならぬ確執に、ある意味で決着をつけたように思う。


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「沢渡温泉史」という立派な本があり、非常に参考になった。この本の著者、唐澤定市先生に会いに行き、さらに詳しい話を伺った。(唐澤先生は元沢渡温泉組合長、その後「中之条町歴史と民俗の博物館」館長を務め、現在同館の顧問)
唐澤先生、並びに、寛容な心で私の行為を認めてくださった沢渡の方々にこの場を借りて謝意を表したいと思います。





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