私たち自身が、どこまでいっても自然な生き物の一員である以上、私たちは自然の全体との断ちがたいきずなで結ばれている。どんなに豊富に私たちのまわりを人口の自然で置きかえてみても、そのことによって私たちは心から満ち足りた気分にはならず、日に日に自然が失われていくさまを欺く。
ある意味では、人間はこの引き裂かれた状況の間を狡猾にわたり歩き、二つの自然観を巧みに使い分けてきたといえる。すなわち、一方で私たちは自然の征服者として、鋭いメスで自然を切りきざみ、その同じ人間が一方であたかもその補償行為として、さながら自然の美を称えるような文化を発達させてきた。
しかし、もはや、しだいに多くの人々が、このような二元論の使いわけが成り立たなくなりつつあることを、感じ始めたのではないだろうか。私たちが直面する深刻な自然と社会の危機は、この二元的に私たちの精神の内部で引き裂かれた自然観を、より新しい観点で統一的に把握しなおすような根源的な作業なしには、克服されないのではないだろうか。
(序章 14ページ)
私(田島)の問題意識もまさにここにある。
自然から、あらゆる産業の糧を吸い取り、巧みに加工して各種の製品にして社会内で利用するのが、現代文明の特質である。
我々は、頭からつま先まで現代文明にどっぷりと浸かり、それに全面的に依存している。
しかしこのことは、私たちを何か落ち着かない気分にー不安にー陥れる。
古来より、人間は神話によって自分たちの存在の意味を確認してきた。自分たちがどこから来て、何をし、そしてどこに行くのか、それは神話によって語られ、信じられ、そして神話によって自然との関係を堅固なものとしてきた。
現代では、そのような物語は、全く失われている。(あえて言えば、宇宙の始まりはビッグバンがあったという宇宙論、生物は進化を遂げてきたという進化論がその肩代わりをつとめているが、その程度だ。)
我々は、普段は文明に囲まれた生活をし、ときどき自然にふれて何かの欠落を埋めて元の文明に帰っていく。
しかしながら、その間をいくら頻繁に往復しようとも、その決定的な乖離を埋めることはできない。
同様のことは、私たちの身体的経験においても起こっている。いまや「見る」ということは身体的経験とはいえなくなっている。見るということは「目の前で起こっていることに立ち会っている」こととイコールではない。言うまでもなくインターネットの発達、デジタル映像や防犯カメラが人間社会のいたるところに入り込み、また3D映像など、架空の経験をさせるものも一般的になっている。
自分と同一の肉体的な身体と、ネットやテクノロジーで拡大されたバーチャルな経験の間で、ある意味居心地の悪さを感じている人も少なくあるまい。
高木氏は2つに引き裂かれた自然観について、その解答を与えていない。
古代から現在までの人間の自然観の変遷については丁寧にたどってあるが、そこから先は、「生活や実践」というものに委ねており、結論を出すことを避けている。あえてそうしたのだろうか?
問題はつまるところ、私たちがどう生き、どう運動するかということになってくる。自然観の問題を一応それとして考えてみたいという当初の問題意識も、結局、行きつくところに行きついてしまう。そこから先はあらためて議論を立て直したほうがよさそうである。
(終章260ページ)
この本の初版は1985年。インターネットの普及はさらに10年後であった。
高木氏の問題提起は正鵠を得ているが、今見ると時代遅れの観が否めない。
現実に原発事故が起こった今日、「どう生き、どう運動するか」「議論を立て直す」などといっていられる状況だろうか?
唯一の方法は、好むと好まざるとにかかわらず、現代文明に果敢に挑戦していく以外に無いのではないだろうか。現代文明を、自分の身体的経験そのものとして生きること、それ以外に無いのではないだろうか?
自分が現代文明そのものとなったときに、自然がどのように見えるのか。私はそのことに興味がある。
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