2012年11月20日火曜日

萩原朔太郎 遺伝

萩原朔太郎の詩に、「遺伝」という詩がある。


以下、青空文庫から転載
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1768_18738.html


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 遺傳

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
  のをあある とをあある やわあ

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」

遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
  のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」

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この詩のクライマックスは
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
という部分である。
犬は何におびえているのだろうか?
「敵」とは誰か?
それは、「遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに」あるものであり
「あはれな先祖の姿」である。

我々は地球に生命が生まれて、数限りない世代を生き残ってきた子孫だ。我らの祖先の生存競争の過程には、思い出したくもない忌まわしい記憶の数々があるのだろう。

近親相姦、見殺し、共食い、・・・いや、そんなものではあるまい。
生殖が単生殖であった時代の自分が2つに裂ける感じとか、凍てつくような寒さに閉ざされた記憶、体が変形するような苦痛の記憶・・・
犬は、それらを「敵」と思って吠えている。
しかし、それらの「敵」は、遺伝によって自分自身の内部に入り込んでいるのだ。なんということだろう。「敵」とは自分自身なのだ。
搾り出すような犬の声は、奇妙に歪み、吠える対象は、「遠くの空の微光」ではなく、自分自身に向けられていく・・・

さて、今や我々の「敵」は、この「先祖の記憶」だけなのだろうか?

この現代の社会もある意味で「敵」のひとつだ。自然と我々の直接的関係を奪ったのはこの現代の技術文明だ。
しかし、我々はこの技術文明抜きにしては生きていけない。「敵」」に向かって吠えているつもりでも、吠える声は奇妙に歪んで、自分自身に向けられていく。
我々は自然を食い物にして生きている技術文明の一部として生きている。それにいくら嫌悪しようと、それは、自分自身の姿なのだ。

このような自分自身のとことんまで戦慄し、幻滅し、絶望し、そして生きていくしかないのだろう。朔太郎の犬のように吠えながら。




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