2012年10月14日日曜日

外の思考

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考  ミッシェル・フーコー 著  豊崎光一 訳

「私は話す」・・・この評論はこの一言から始まる。
この「私は話す」という一文は「~を」という目的節が無い。
したがって、「私は話す」という言葉だけでは、何も言わないのと同じだ。

しかし、あえて「私は話す」と発語することは、或る空虚へと私たちを案内することになる。そこにおいては、話す主体も無くなってしまう。
言語が何かの意味の伝達ではなくて、言語そのものが生の実体として出現する。その代わりに、発語する本人(主体)は存在意味がなくなる。

主体が消滅する空虚な空間・・・ミッシェル・フーコーはそれを「外」という。


(中略)「私は話す」があたかも「私は考える」の裏側におけるように機能することである。「私は考える」は事実「私」の疑いを容れない確実性とその実在とに導いた、ところが「私は話す」の方は逆にこの実在をおし込め、拡散させ、拡散させ、消してしまって、その空虚な在処のみを出現させるのだ。

「私」という主体ーもちろんそれはデカルトが発見した近代的理性というシロモノである。ー我思う。ゆえに我ありーというアレです。

ところが、「私は話す」は、人間がいかに非理性的かということを暴露する道筋を示す。

「私は話す」が指し示す空虚は、本当は何も無い空間ではなく、見えないエネルギーに満ちた、底知れないポテンシャルに満ちた空間なのです。

それは見えないが故に恐ろしい。フーコーはこんな薄気味の悪い喩えで表現しています。


そこでは、夜になると、あらゆる眠りの彼方に、話している人の押し殺した声が、病人たちの咳が、瀕死の人たちの喘ぎが、生きることをやめることをやめようとしない者の途切れた息が響いている。

幽霊でも出てきそうですね。

さて、この評論文はモーリス・ブランショの評論なのですが、もちろんブランショはこの「外」を表現した人として紹介されています。

私もブランショの本を読んでみました。作者はたぶんわざとわかりにくくなるかのように書いています。
「謎のトマ」は書くこと、表現することを疑いつつ書いているのが良くわかります。
また「私についてこなかった男」に至っては、およそ5W1H(誰が、どこで、誰に、いつ、何を、どうした)を無視しています。誰が誰に何をしたのかまったく不明で、「彼」とか「私」とかいう登場人物も何の説明も無しに出てきて、何をしているのか全くわからない。

このような文章全体が、あの「外」をーーー恐ろしいエネルギーを備えた、マグマのような大きな塊の表面を覆っているのだ。
ブランショの小説は、文が物語りを語っているのではなく、その中心のエネルギーを指している。
例えていうなら、地球の内部にあるコアのエネルギーは、マントルを対流させ、地層の褶曲や断層や、時には火山の噴火や地震を引き起こす。ブランショの小説は、その褶曲や断層、噴火や地震なのである。


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