2009年10月13日火曜日

スピリチュアル文化

スピリチュアル・カルチャーともいうべき潮流が今すごく盛んだ。

江原啓之氏の「スピリチュアル・カウンセリング」が大変な人気を得ているなど、前世などの考え方がかなり一般化しているようだ。

オウム事件の反省もあってだろうが、体系化・組織化された宗教には誰しも抵抗があるようだが、その代わり垣根が低いスピリチュアル文化が広く普及している。

ということは、現代日本の心的な風景は、オウム事件があったときと同じ、またはそれ以上に悪いのでしょう。共同体の喪失、人と人との絆の希薄さが一般化し、孤独で浮遊した現代人が不安や不満をかかえている。

僕はスピリチュアル文化にはかなり胡散臭さを感じているし、前世とか霊とかを無条件に受け入れる気にはなれません。
多くの人がそういう物語を必要としているということには、何か違和感を感じます。

ニューエイジ・サイエンスというのも、ちょっと・・・

スピリチュアル文化の根本には、心というものが何かの実体、または実体的な世界を作っているという発想があると思いますが、そもそも心ってなんでしょう?

心なんて、あるんでしょうか。
在るとしたら、どこにあるんでしょうか。

いや、お前は心があるはずだ、その証拠にこの文章を打っているではないかと反論する方もあろうと思います。
確かに何かの一連の現象が私にこの文章を打たせていますが、だからといって心という実体があるとは限りません。

実は心という実体は無いのでしょう。
心的な現象があるだけで、私という人も、私の心というものも、無いのでしょう。
楽しんでいるとか、怒っているとかの状態はあるのでしょう。しかし心という概念的なものは無いのです。
たとえて言えば気象ともいうべきもので、雨が降ったり風が吹いたりする現象はありますが、「気象」という抽象的な概念はどこにも無いのです。

心のほうもたくさんの種類があります。怒っている、悲しんでいる、笑っている、考えている・・・などなどその時々でいろいろな状態があります。
私というものも、色々あります。夫である私、会社員である私、通行人である私、アーティストである私、男である私。。。いろいろな私があり、どれも違います。だから、私という括り、私という作り物をこしらえて私の同一性を解釈するわけです。

昔と違って地域の共同体が希薄な今日、浮遊する現代人の精神は、私とか、私の心とかいうものの保障をもとめて、スピリチュアルの世界に駆け込むのでしょうか。

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