私は、絶望と希望の間の灰色の領域にいる。
あらゆる物に名がなく、ものの一切が動かないその場所。
すべての物が意味から取り外されている。
外に抜け出す梯子(はしご)は取り外され、その中でしか生きていけぬ、その深い谷。
その中立的な領域において、私は見極めようとしている。
何を?
永遠を!
永遠とは深淵に誘う巨大な闇か?
そして人間は、永遠というものに耐えられるのか?
永遠とは変化しないこと。つまり死。
永遠を愛するとは、死を愛すること。ということは滅びを愛することか?
永遠に生きるということは、ゆっくりと死んでいくことか?
それともみずみずしい新鮮さを永遠に保ちつつ生き続けることは出来るのか?
同じことの繰り返しがなく、つねに新鮮な状態で。
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しかし、私は、時間の流れが常に滅びに向かうことを知っている。
熱力学の第二法則。
無秩序さは常に増大する。すべてはカオスに向かっていく。
最終的には、すべてが一様均一になり、熱力学的な死を迎える。偶然のノイズ以外には何も起こらない状態が宇宙全体を覆ってしまう。
そうだ、やはり永遠は無かったのだ。
永遠とは現実に存在しない、仮定の産物なのだ。
+ + + + + + + + + + +
そう、そのとおり、しかしだからと言ってそれがどうしたというのだろう!
永遠とは一種の仮定である。
仮定である以上、熱力学第二法則を無視したとしても一向にかまわない。
永遠の前提として、いつまでたっても無秩序さが増大しない世界を想定しても良い。
+ + + + + + + + + + +
さて、そうだとして、
永遠の定義からして、変化がいつまでも続くということである。
つまり全く違うパターンが永遠に出続ける。
永遠とはそういうことなのか?
例えば円周率は無理数である。
無理数にはいつまでたっても繰り返しのパターンが出てこない。
だからといって、無理数は永遠であると言えるのだろうか?
+ + + + + + + + + + +
しかし人間の生は物理法則や無理数とは違う。
私が今生きているこの時間は、私にとっては取り換えの効かぬ唯一のものである。
そして私にとって大切な人々も、取り換えの効かぬ唯一のものだ。
もし何度も生まれ変わって、その都度違う人々に会い、いろいろな異なる境遇に晒されたとする。
その都度の出会いは前回の繰り返しではなくその一度限りのものであり、私はその都度の邂逅に没入している。
そこにおいて、前回との比較は成り立たない。
その一回の出会いが絶対、唯一である。
これらの出来事は何回起こっても一回一回が独立しているはずだ。
一度きりのことはその時のことであり、前回のことも、次回のことも関係ない。
無限に変化が進行するのだが、私はその都度それに没頭していて、その先のことは考えていられない。
常に今しかないはずである。
永遠とは、「今」が永遠に続くこと。
その前も後も見えない。
「今」の前後は霧の中のようだ。
永遠を愛すとは、「今」を愛することである。
もし永遠が、変化の無い状態またはただのノイズだとしたら、それは死と同じだ。
しかし時間の前後から裁ちはなたれ、「今」しか見えないのだとしたら、永遠の変化は可能であるはずだ。
永遠は一気に襲ってこない。永遠は、「今」という札を順番に我々に示していくのみである。
もしある日、貴方のもとにデーモンがやってきて、一粒の黄金色に輝く丸薬を示し、「この薬を飲めば永遠に生きられる」と勧めたとしよう。
そうしたら、是非その薬を飲みたまえ。
恐れることはない。
「今」を愛するなら、永遠のことなど考える必要すらないからだ。
+ + + + + + + + + + +
上記で私は或る考察に行き着いたが、はたしてこれでよいのだろうか?
人間は「今」しかわからないから、永遠を感知できない。
それゆえ、永遠は在っても無くても同じこと。
人間は永遠を把握できない、ということがこの考察の結論なのか?
私はとんでもない思い違いをしていないか?
+ + + + + + + + + + +
そのとおり、私の直観は私に次のように教える。
やはり永遠は、一瞬にして把握されるべきものなのだ!
そうでなければ、永遠という言葉の意味自体が成り立たない。
そうである。ここに永遠がある。
宇宙が始まるとか終わるとかということとは関係ない。
永遠は、今まさにここに、そして何百年前も何百年後も、いつの時代のどんな時にもあった。
そしてこれからも在り続ける。
なぜかというと、それが永遠だから。
永遠とは、時間がどこまでも続く状態ではない。
逆である。時間が永遠から発生する。
時間とは、永遠の中に発生するさざ波であり、その波と波の間の谷に我々の宇宙があって、そこに人類は住んでいる。
波と波の間の狭い谷を見渡して、我々人類は宇宙全体を見たつもりになっている。
しかし実際は巨大な永遠の大洋の表面に生じたさざ波に過ぎず、その波も極短い時間で消え失せてしまうのだ。
この大洋が表面を覆う惑星は無限に大きい。
つまり、その惑星の表面は、平坦であり、どこまでいってもその惑星を一周することはできない。
無限の数の大陸、
無限の数の島々がある。
無限の数の台風が発生し、
無限の数のモンスーンが流れる。
惑星の気象は、無限に多様であり、同じことの繰り返しは出てこない。
+ + + + + + + + + + +
我々が、ビッグバンとか宇宙の終焉とか言っているものは、すべて永遠の中にあり、永遠のごく一部である。
宇宙が生まれて137億年だそうだが、その時間は砂粒が砂時計の首を通り抜けるよりも短い。
永遠の時間の長さをいくら比喩的に説明しても無駄だろう。
なぜかというと永遠だから。比較する対象がない。
永遠を一つの塊のようなものとして捉えられないだろうか?
いや、それは無理だ。
塊として捉えると、その塊以外のもの、つまり永遠でないもの、を考えざるを得なくなるから。
永遠は一つ、唯一である。
永遠は遍在していて、どこにでも一様にある。
この宇宙のどこにでも、そしてこの宇宙以外のどこにでも。
永遠の外側を考えることは、その定義からして不可能だ。
永遠は私たちと共にある。
私たちは、永遠と一体である。
永遠を愛すとは、永遠と一体である必然性を肯定することなのである。
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