2011年8月18日木曜日

現代文明の身体的理解とは

今日は殺人的な暑さだ。
私はエアコンの効いた部屋で、インターネットに触れ、この投稿を打っている。


エアコンなど無かった江戸の昔は、暑いときはなるべく動かないようにし、あとはひたすら暑さに耐えていた。


私たちは、資本主義的なテクノロジーに取り囲まれ、
それらと一体になって生活している。




私はいままで、こういうことを、自然と身体とを分断するものとしてネガティブな記述をすることが多かったが、そのように捉えることは、誤りであろう。


浄水場からの水を使い、下水処理場で浄化して川に戻す。
化石燃料(や原子力)をつかって発電した電力を使っている。
インターネットをつかって情報を入手したり、流したりする。
Eメールは欠かせないツールになった。
第1次、第2次、第3次の産業を通じて生産されたものを消費している。


このテクノロジー全体(ハイデガーのいう「ゲシュテル」)は、紛れもない現実であり、もはや否定すること自体がナンセンスだ。


では、どうするのか?


あまり面白いことではないが、むしろ、このテクノロジー全体が、私たちの身体である、と考えるべきではないだろうか。


私たちは、社会から独立した一個の生命体なのではなく、資本主義的テクノロジーに心も体も渾然一体となっている。
意識や無意識は、個人が持っているものではなくて、社会に深くかかわっており、むしろ一つの資源や産業のように需要と供給の中に位置づけられる。
フーコーのいうミクロ権力、またはルーマンのいうように社会が一個の有機体なのだろう。


直接自然に接しており、自然と駆け引きをするのは、このようなテクノロジーであり産業なのである。だからそのテクノロジーや産業が我々の身体であると考えたときに、我々の真の自然認識は始まるのである。


我々は、浄水場が食道であり、下水処理場が腎臓であり、発電プラントが肝臓であり、情報ネットワークが神経系統である。


社会を身体となぞらえることはホッブス以来の古臭いアイデアであろうが、現代においてリアリティをもって産業=身体 説は復活されるべきであろう。











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