2014年8月28日木曜日

量子力学の爽快さ -量子力学と仏教哲学-

前回、「量子力学の気持ち悪さ」というタイトルで文章を書いた。なぜ気持ち悪いかというと、粒子は「あるんだか無いんだかわからない」「見てないときには何をしてるのかわからない」「客観的に観測したいのに、見ただけで自分がその現象に関わってしまう」という点にある。
見ていないときにはどうなっているのか全くわからず、見た瞬間にそれかどういう状態なのか決まるということなので、客観的に観察したいのに、それが許されない。その場はまるで粘液のように見る人の視線に絡みつき、振りほどこうとしてもネットリくっついてきて離れないのだ。


しかし、それらの気持ち悪さは、「現象は私達の存在とは独立して存在するものだ」という私たちの思い込みから来ている。
どうやら私たちは現実に対する認識を変えなければならないようだ。

この鍵は仏教哲学にある。
仏教哲学と量子力学の類似性は古くから指摘されていたが、格好の文献があった。
大野公士さんが紹介してくれた以下の本です。


掌の中の無限

パスツール研究所で分子生物学の博士号を取ったあと、チベット仏教の僧侶となったマチウ・リカールと、ベトナム生まれで仏教の伝統の下で育ち、アメリカにわたって天体物理学の専門家となったチン・スアン・トゥアンの対話集である。


マチウ・リカール(左)とチン・スアン・トゥアン

元科学者のマチウ・リカールと、現役の天体物理学者のチン・スアン・トゥアンとは通じるものがある。議論は素粒子論、認識論、存在論、宇宙論と多岐にわたる。どの部分も興味深いが、前半部分は量子力学と仏教哲学の共通点について触れている。
驚くことに量子力学の言う現実の奇妙な性質は、仏教によってはるか前にすでに記述されていた。


仏教は、独立した実在の存在に意義を唱え、相反的な関係および因果性という考えに行き着きます。つまり、出来事というのは、他の要因との関連において、それに依存してのみ出現するのです。ー(マチウ・リカール)
観察行為がまったくない状況の下で存在する「客観的な」現実について語るのは意味がない。それは決してとらえられないからです。つかまえられるのは、観測者とその測定機器に依存する電子の主観的な現実だけです。この現実が取る形は、われわれの存在と絡み合っている。われわれはもはや、原子の世界の騒然たるドラマを前にした受け身の観客ではなくて、完全な演技者なんです。ー(チン・スアン・トゥアン)
 われわれは素粒子を、測定機器との、あるいは観測者の意識との相互作用の働きによって、はじめて物質化される潜在性と考えるべきです。完全に独立した現実とか、元来は対象に帰属するような測定とかを想定して、それを観測のプロセスから切り離すことはどうしてもできませんね。だから現実を主体と客体に分断することは不可能です。-(チン・スアン・トゥアン)
(量子力学が示すような現象の全体性をそのまま受け入れることは)仏教の基本的な方法なのです。単に知の方法としてではなく、人間的変革の実践としてもです。空性の理解へといたる分析は、一見きわめて知的に見えるかもしれないけれど、そこから生じる直接的認識は、私達を執着から解き放ち、したがって人間の生き方に深い影響を及ぼすのです。ー(マチウ・リカール)

かれらの対話を聞いていると、客観的かつ永続的な物質や粒子は存在しないものであり、たえず揺れ動く存在の潜在性のみがある。粒子なり物質なりが認識可能であるのは、観測者の意識と相互作用した結果なのであって、それは現象の本来の姿とはいえない。

言ってみればありのままの現実世界とは、我々人間の意識も含めて一体のものであり、決して切り離すことはできない。客観的事実があるなどという唯物論的な説明はきわめて粗野なものであり、非現実的ある。

彼らは、クォークや超ひも理論も唯物主義的な方便という捕らえ方とをしているようだ。また多世界解釈については、波と粒子の相補性原理を受け入れられない人がムリヤリ考えた理屈であるかのように否定的だ。

宇宙の不可分性の根拠として、彼らはEPR相関(量子もつれ)と、フーコーの振り子の2つを上げている。
マチウ・リカールはEPR相関(量子もつれ)について、宇宙がビッグバンから始まる1点から生まれたとしたら全宇宙は相関によってつながっているはずだと示唆する。またチン・スアン・トゥアンは、フーコーの振り子は地球の自転を証明するだけではなくて、宇宙全体に対して基準面を持っていることから、地球で起こっていることは全宇宙と関連していると指摘する。


難解に思えた量子力学の原理だが、見方を変えればとても簡単なことだ。

物質とはモノではない。存在とは、確定的なものではない。本質的に不確定である。もし確定したかのように思えるなら、人間の意識が関与して存在を確認したという幻想を作り出したのである。

 前回の芸人の例でいえば、わたちたちは誰ひとり観客でいることはできない。全員が芸人である。誰一人として、傍観者でいることはできず、全員は現実を主体的に作っているのである。

前回述べた量子力学の「気持ち悪さ」は、私たちが「客観的現実が存在するはず」という幻想にとらわれ、自らの現実への関与を恐れて何もできない、神経症患者のようなものだったのだ。
ようやく我が文明は神経症から治癒する段階に来たといえるのではないか。

イメージで語るとすればこういうことだ。現実とは、私たちが一般に考えるような確定的で、客観的で、よそよそしく、頑として動かず、融通の利かないものではない。
柔軟で優しく、見方によって様々に姿を変え、変幻自在で多様性に富んだものだ。

現実は不確定であることを認め、自らが現実を積極的につくることを認め、世界は自分も含めて全てつながっていることを会得すれば、全ての謎は解ける。
清流が小石を洗い流すかのように爽快なものだ。


さて意識と量子の世界が不可分であるからには、私が「量子と意識」「量子と意識2」の回で述べたように、多数の人々の感情の高ぶりが、乱数発生器に影響を与えても、おかしくはない。
突飛なことを言い出すようだが、現象は不可分であり全てはつながっているのであれば、乱数発生が全宇宙から独立した現象であると考えることはできない。直接の理由は未だ不明だが、量子現象と意識現象が、同一の次元で議論できる状況が今後出てくるのではないだろうか。

意識現象と量子現象の類似性というか同一性は、私たちの意識と全宇宙との連続性を意味している。もしこれが証明され、統一的に解釈できる理論が確立したら、私たちの現実への関与は、全く新たなものになるだろう。



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