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社会は一つの怪物であり、僕たちはミクロの決死圏のようにその怪物の中をうごめいているわけだ。
時代を捉える方法として、思想・哲学がある。わたしも良く読むが、思想は人間の心の中のことを主に問題にしている。
いくら読んでみても、それより大きな認識にはなれない。
リアルな現実に対応していないからだ。
国道の横の歩道を、クルマの排気ガスをかぎながら歩くほうが、オイディプスコンプレックスについて語るよりもリアリティがある。
社会とは、政治によって動かされているわけでもなく、国民や市民によって動かされているわけでもない。確かに政治は社会の非常に大きな要因だが、それは撹乱するに過ぎない。
社会が政治の思うがままに動くかどうかは、社会が決めることだ。
したがって社会は一つの生命のように自律的なのである。
さて、ではこの社会生命の「感覚」とは、どのようなものなのだろうか。
社会の活動がすべて反映される場所は、どのような空間なのだろうか。・・・
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スーパーに買い物にいったり、DVD屋でレンタルをしたり、インターネットをしたり、飲み会にいったり、会社で仕事をしたり・・・・
それぞれの人には、別々の思惑があることだろうが、それぞれは社会にとって活動の最小単位だ。
いうなれば私たちは社会という生き物の細胞であり、私たちの社会的活動はその中での細胞の働きである。
スーパーで買い物をすることは、赤血球が酸素を取り込んだりすることに相当するようなことだ。
メールを出すことは神経細胞の発火だ。
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都市というものは、いや都会や田舎にかかわらず人間の生息する場所とは、
大地にピッタリと張り付き、地下資源を吸収し、
農地のシステムをつかって食料を補給し、
交通機関をつかって物資や人間を移動し
さまざまな通信手段とマネーをつかって情報をやりとりする。
都市は生き物だ。器官が次々と立ち上がってネットワークをつくっていく奇怪な生き物だ。
そんなことを考えながら
仕事を終えて電車で帰ってくる。
住宅街を通って我が家へ帰ってくる。
電車を使っての移動・・・
電車は、この生き物の輸送手段であり、いってみれば血管だ。
さながらそれに乗っている私は血球のようなものか。
今日も仕事場にいって別の組織に栄養を与えてきた。
夜、飛行機で都市の上を飛んだことのある人ならわかるだろう。
さながらそれらが、大地に張りついている発光性の生き物のようで、
道路を通るクルマのライトが血管をとおる血球のように思えたであろう。
地面の上を移動しながら、そのような感覚に思いをかけていた。
これがたぶん社会的身体感覚というものだろう。
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社会の産業に関する本と、人体図鑑を見比べて読んでいる。
そこには、似ているところが多い。
送電施設は、神経系やリンパ系と類似している。
共通概念は、オートポイエーシスだ。
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