2011年2月27日日曜日

身体感覚を取り戻す

現実に、自分が物理的に存在していることを、腹の底から実感するには
どうしたらいいだろうか。

私がたどり着いた結論

やはり、身体  なのです。

身体こそが、自分が物理的に存在していることを証明する唯一のものです。

私が25歳にして無謀にもラグビーを始めたのも
今にして思えばそういう身体的実感を求めていたのだろうと思います。

しばらく前に、この本を手にしました。

動画を追加
今では超有名人となった斎藤孝氏の数ある著書のなかでも
一番のお勧めです。
冒頭部分を引用します。


"最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、「腰が据わっている」や「肚(はら)ができている」や「地に足がついている」といった感覚を自分の身において実感できている者はどれだけいるであろうか"

---身体感覚は、「技」である、ということは目から鱗であった。
存在する、ということは、哲学の問題ではなく、身体の問題、身体の技術の問題なのだ。
「存在するための技術」があったのだ。


日本には、身体の感覚をつくる技があって、もっとも重視されたのが「肚(はら)」である。
具体的にはヘソの下の部分。臍下丹田(せいかたんでん)と呼ばれている身体の中心である。

浴衣やハッピを着るとその上で帯を締めるようになっていて、なるほどと思ったものだ。
さて、この丹田の感覚、身体の中心感覚は、技として作っていくものです。
そして約1年前、私は、丹田の形成を始めました。

丹田について(2010年3月6日)

丹田形成 その後(2010年3月10日)


それから1年、粘り強く 丹田呼吸法をやって、最近は下腹に充実感を感じるようになりました。
つねに帯を締めていて、ギュっと締まっているような感覚です。

これが身体の中心感覚なのか、と実感しています。
こうして私は、自分が物理的に存在していること、の実感を、技として手に入れることができました。
精神と身体がぴったりとくっついている感じ。。。。penetrationの感じを獲得しつつあります。

ただ、私が以前感じていた、世界との遠さ・・・感覚の窓を通じてしか世界とコミュミニケートできないという、いわば現象学的な遠さ・・・それは、完全に克服されたわけではありません。
いえ、それは克服は不可能で、カントがいうように「物自体の認識は不可能」なのですから。


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2011年2月25日金曜日

penetration(貫き通す)の感覚

penetration(貫き通す)の感覚は、私にとって非常に重要である。

何かと同一化しているかのように刺し貫かれていること。
ぴったりとくっついて、串刺しになっている感じである。

焼き鳥が串に刺し貫かれているように、
ホッチキスが紙を刺し貫いて止めているように。

私は、自然-身体-精神-社会をpenetrationすることを、唱えはじめた。

自然と身体について:身体は自然現象そのものであり、自然現象にぴったりとくっついている。

身体と精神について:人によっては精神は身体と独立しているかのような言い方をする人もいる。
だが、物質界に生まれ、精神が物質によって規定されているならば、精神は身体という物質に
分かちがたく結びついていると考えなければならない。

精神と社会: こう書くと、なにか絶望的な気分にもなる。精神は社会にどのような影響を
与えているだろうか?社会は、精神によって出来上がっているであろうか。
社会とは、経済のことではないだろうか?
だが私は、社会とは精神であると、言いたい、いえるくらいに活動しなければならない。


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2011年2月24日木曜日

死後の世界の前に・・・今生きているこの世界

さて、私は「あの世」とやらから、
この地上界(物質界)にやってきた。
あーだこーだと苦労しながら生きている。

しかし、物質界にいるというのに、自分の肉体が
本当に物質でできていて、物質が作用してさまざまな
生理的な反応が行われているということを
実感しているのかというと、実は怪しいところがある。

今の季節、外の空気は冷たいし、アスファルトの硬さは
靴を通して足に伝わってくる。
食べ物を食べると胃が膨らむ感じがするし、
風呂に入ると確かに暖かい。

しかし、しかし。。。一体私は、どれほどのことがわかっていると
いうのか?
自分の乏しい感覚器官を通じてしか、これらのことをわかり得ないではないか。
私たちは、現実世界の一部分しか知りえず、しかもそれも
私たちの解釈に合わせて捻じ曲げられ、仮想的な世界を作っている。
歯が痛いとしたら、私は歯の痛みを作っている。
それが、私の肉体とのコミュニケーションだ。

私は、自分が完全に物理的実体であることを、わかり切りたいと思う。
世界が存在すると確証したいと思う。


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2011年2月23日水曜日

死後の世界・・・生きている俺・・

そもそもいったい何の為に生まれてきたのか・・
しばしば疑問に思うことがある。
スピリチュアリズムは、以下のように答える。

生前のあなたは、あの世にいて、自らの霊性を高めるために
地上界(物質界)で学ぶことを決意しました。
より完全な魂をはぐくむために、地上界で修行としようと降りてきました。
地上界において生まれると、生前の決意のことは忘れてしまっていますが、
あなたはこの世で苦難や試練があったとしても、
それは必然的に与えられた修行なのです。
この世で起きることにはすべて必然的な意味があります。
立派に務めあげましょう。


このようにいわれると、大抵の悩みや苦難は、解決の方向に向かい
困難に立ち向かい、または柔軟に受け流し、
豊かで、喜びを生み出す方向に転換できるような気がするものだ。
私は、霊性を高めるため、魂を磨くため、決意をもって
物質界に修行に来ているのだ

このようにスピリチュアリズムは、人生を意義深いものにしてくれる。
この世で起こることは、意味のない偶然の現象の連続ではなく、
背面にある世界が、しっかりと意味づけして支えてくれている。
自分の生まれてきた目的は当然のこと、どんな些細な、
意味の無いように思えることも、すべて意味がある。

実にすっきりとした美しい考えだ。

ただひとつの疑問さえなければ。
その背面支持世界、霊界、私が生前いて、そしてまた帰っていく、あの世は、
一体どこにあるというのか?

ここに来て、言葉を失うのだ。
一体どこにあるというのか?

そして霊界との魂の行き来は、実際どのように行われているのか?

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2011年2月22日火曜日

死後の世界の考え方・・・

前回のテーマの調査を終えて、私は考えている。
もっともらしいことを書いたが、何か気に入らない。
なんだかこじつけがましい。

自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「あの世」の想定をしていない。
この世の経験こそ、リアルなものである、という基調があるので
宿題を死後に持って帰らないのだ。

もし、死後の世界を想定すると、
自然-身体-精神-社会の経験が相対化されてしまうのである。

つまり、自然-身体-精神-社会をつなぐことは
「魂を磨く」ための単なる手段の一つになるだけなのである。

死後の世界を信じる者に言わせると
すべては必然であり、この世の経験すべては魂の学びである、という。

何か辛い目にあう人は、自分ではどうにもならないことを経験する
という試練をうけるべく生まれたのだというのである。

私が、自然-身体-精神-社会をつなぐなどと考え、活動していることも
前の世で私の魂が立てた学びの志のひとつであるのだろうか?

2011年2月14日月曜日

死後の世界の考え方について

自然-身体-精神-社会をつなぐことを目指す私は、やがて文化総体を見直すという大きなテーマに直面せざるを得ないと思います。「死後の世界の考えかた」は、文化圏の文化の形を考える鏡のようなものです。というのも、「死後の世界はあると思うか」という質問にはその人の死生観、人生観など重要な要素が入ってくるのであり、それら一つ一つの回答を集めると文化総体の姿が現れてくると思います


こちら↓に、「死後の世界を考えたことがありますか?」というトピックがありました。


http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0831/259967.htm?g=03


問いかけは以下の内容です。
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57歳、男性です。

最近また死後の世界をよく考えるようになりました。
「また」とは、もう随分昔、学生時代には毎日のように考えていました。今居るこの自分が消滅すること、もう自分の存在がなくなることの恐怖に耐え兼ねて毎晩電気を点けっ放しで眠ったことを今でもよく覚えています。この恐怖を当時の学友に理解してもらおうと、どんなに話しても分ってもらえず、死んだらもうそれで終わり、それまでだから、考えても仕方がない。殆んど皆がこんな返事で、取り合ってくれませんでした。

その時描いていた死後の世界は、文字通り何もない、存在しない世界だったから怖くなったんだと思います。以降徐々にそんなことは考えないようになり、この年になるまで深刻に考えるようなことはありませんでした。ところがまた良くこの死後の世界を考えるようになりました。きっかけは分りませんが、最近年の余り違わない人が立て続けに亡くなり、葬儀が続いたことが一番大きな要因と思われます。

死後に何らかの世界があるなんて私には気休めにもならず、全くそんなことは考えられません。それだけに恐怖なんです。こんなことを考えるのは私だけでしょうか?
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これに対し、たくさんの回答が寄せられていました。
問いかけが真面目で切実な内容だったので、回答も真摯なものが多く、
私は、現代日本人の死生観を知るのによい資料と思いましたので、これを一つ一つ読んでいきました。

回答は実にさまざまなものがありましたが、似通っているものもあり、とりあえず分類してみることにしました。
全部で112件の回答が寄せられました。
私は、「死後の世界はある」「死後の世界はない」という軸と「死ぬのはこわい」「こわくない」という軸の4象限にわけて分類を試みました。エクセル表に分類していきさらによく読みこんで、共通する意見をまとめ、以下のように表にしました。(クリックして拡大してごらんください)



回答内容のほとんどは、トピックを立てた人を励ますためか、死ぬのは怖くないという回答です。



怖くない&死後の世界があるという人たちの多数を占めるのは
「現世はあの世で次のステージにいくための修行/学び/魂を磨くための場」という考え方です。



現世の辛いことも悲しいことも、また利己的な気持ちを持たないことも、自分の魂を高める修行であるという高い倫理性を感じさせる内容です。
それらの人たちの感覚を表す言葉で、「(死後の世界に)還る」「光になる/風になる」という言葉が目につきます。つまり、死後の世界こそ、オリジナルな、かけがえの無い固有の価値があるというのです。




怖くない&死後の世界は無い、という人たちで、多数を占めるのは「死んだら無になるので、恐れる自分もいなくなる」という単純な考えです。そして「消えて無くなることに安堵感を感じる」というむしろ死後の世界が無いことを望む声も少なくありません。


また「今日一日を生ききることが大事。今この瞬間を大切に生きる。」という回答も目に付きます。死後の世界が無いと思う人は、決して刹那的/快楽的/利己的ではなく、一度きりしかない生涯を精一杯生きるというような高い倫理を持っています。

重要な違いのように見えるのは、「死後の世界在る」派は「魂を磨く」という考えを持っていることです。
自分の心を慈愛に満ちた、清浄で透明なものにしていくという発想です。
「死後の世界無い」派は、そのような発想がありません。死んで残すような財産はないのです。しかし二度と繰り返さないこの時を普遍的な価値あるものにしようとし、他者への奉仕や喜びを分かち合うことにも重きを置いています。

「魂を輝かせる」か、「今という瞬間を輝かせるか」の違いであり、価値の極大化を図ろうとする態度は同じといえます。
互いにその心情は理解できないにもかかわらず、もう一派の考えを受容することができるという構造を持っています。
同じ文化圏の中で両立可能であるということです。



これは、決して文化の矛盾や混乱ではなく、生きる価値の極大化という一致する価値観を持っているからであろうと思います。

次回は、「死後の世界」のいくつかのモデルパターンについて考察したいと思います。



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2011年2月7日月曜日

安齊重男さんにActionの写真プリントをいただきました。


アート・フォトグラファーの安齊重男さんに
私の最終日のアクションの写真を撮っていただき、プリントをいただきました。

こう撮ってもらうと、たぶん実物よりもカッコいい。(だろうと思う)
デジタルの時代に、白黒フィルムを使い、印画紙に焼き付ける
この技の全体が、何ともいえずカッコいい。
これは完全に安齊さんの作品。私は安齊さんの視点によって解釈され、表現されています。

ありがとうございます。安齊さん。


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2011年2月3日木曜日

Action!!






アーティストの飯沢康輔さんの撮ってくれた写真。

ご自身のブログでも我が意を得たりの内容を書いてくれています。



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